現代、体罰を容認しない!社会問題になる行為という事は、誰でも理解できるでしょう。
ところが、過去そうじゃない時代もありました。
私が子どもの頃は、悪いことをすれば先生から拳固で殴られるなんてこと、日常の出来事でした。
当時だと、教育方法の一つだったのか、叱られると同時に拳固や平手打ちなど、
確かに悪さをしたからという理由はあったのですけど。
今じゃ考えられないでしょう。
それから、ドラマでもよく見かけるシーン。
廊下でバケツをもって立っとけ!
というもの。
最近はあまり見なくなった(ドラマを見ないだけ)かもしれませんけど(笑)
ども、harutoです。
実は、これよりもっと古い時代に体罰を絶対禁止と、うたっていた人物がいました。
体罰を絶対禁止と、うたっていた人物がいました!
彼の、フランス皇帝、ナポレオンです。
2世紀ほど前になるフランス軍で、という事になります。
体罰は、私的制裁にもつながるとしていたのです。
上下関係が発生する又は、存在する場合必ず付きまとうものですと。
上下関係は、軍隊をはじめとして、社会の中でも、学校の運動部などはその典型です。
運動部では、これを必要悪として認める方々も一部にはいるでしょう。
そのために多くの新入部員が途中で挫折するとしたら...中には、死者まで出す運動部すらありました。
体罰の存在理由とはなんでしょう?
こんな、体罰に理由があるのか???
体罰承認派の人は、
「それに耐える根性を育てるため」
とか言います。
「耐える根性」ですか・・・
忍耐力とかを育むのですね?
それじゃぁこの場合は「我慢する」ということですか?
もし、体罰に耐えることでしか忍耐力が養えないのなら...
体罰はダメ!という発想自体が起きないのではないかと思います。
事実「なんで俺が?」「くそ、今に見てろ!」「この〇〇野郎!」「偉そうに指図だけしやがって!」
という負の感情が芽生えたりしませんか?
体罰だとこれが、法(決め事)ではなく、実施した個人に向くのではないのか?
だから、それが悲劇を生むのでしょう。
これが、求めているモノでしょうか?
こんなの求めていないはずです。
では、体罰承認派の言う、軍隊での体罰は?
「強い兵士を育てるためだ」
「軍隊は精強でなければならない」
・・・
という方もいると思います。
体罰でそれが可能なのでしょうか?
ナポレオンが率いるフランス軍は破竹の勢いで連戦連勝していました。強い!
当時のヨーロッパでは最強の軍隊でした。
当然、体罰禁止です。
精強な軍隊と体罰とは無関係と云えますね。
日本軍も昔、日清・日露戦争当時の日本軍には体罰は存在していませんでした。
規律も世界一で、1900年義和団事変に出兵した日本軍は、強く、その上、略奪暴行行為は皆無でした。
指揮官達の素養が大きく反映していた結果とも言われています。
フランス軍でも日本軍でも。
おかしくなった原因はどこに?
組織内に「内務班、総務・人事部あたり」事務屋が、幅を利かせてきた頃でしょう。
新兵や新人の教育係として選任指導者ではなく「一年先輩をあてがう」これをやったこと。
これが体罰の日常化を引き起こしていたと考えています。
上下関係は一年上という現実が全て、これは今でも伺い知れます。
先輩には逆らえない。
ところが不思議と、先生には逆らうんですよね。(?)
でも、先生により蹴りですね。
好き嫌いでえり好みしていたデス(笑)
矛盾してますよね(笑)
二年生に、一年生を指導させると、二年生の先輩らが一年の時にやらされていたことを増幅させて後輩たちを
シゴいていく。ちょっとしたことを理由に、連帯責任の美名のもと、ミスをしていない者までが、体罰を受け
ることになる訳ですから。
ここに残る感情は・・・
残るのは反感だけでしょう。
その気持ちが心の奥底で、渦巻いていたとしたら...
それが軍隊であると、戦場に出た場合に思いがけない報復を受けることになるかもしれません。
弾丸というのは敵側からばかり飛んでくるとは限りません。(意味深・・・
後方から、側面から、不意に一発食らうことだってあります。(こ・怖い・・・
私が子どものころ、じっちゃんから聞いたことがあります。
優しいじっちゃんでした。なのでめったにその当時の話はしませんでしたが、いつも兵をいじめていた軍曹が戦線で大けがをして、それを見捨てて放置したとか。
いつもは温和な上等兵が、混戦のさなか、下士官を銃撃したなどの話です。どれも、自分都合で他のものを見下してた行動をしていた人のようです。子供心に、「いじめる人にはならないようにしよ!」と、思ったとか、思わなかったとか・・・(笑)
そのことをじっちゃんに言ったら。
人様のことで、うらやましか!とか思わんこったい。
人は人、自分は自分ばい。
うらやましかなら、そうできるよう自分でがんばらんね。
そん人(子)にできたんなら、おまえにもできるやろたい。
とか、いってましたね。
下士官と兵の関係ばかりではなく、将校と下士官の関係も微妙でしょう。
部隊が行動するのは下士官の存在が大きいので、体罰を知りつつも将校が
遠慮するという話もあるし、ここに至っては、入隊(招集)するとき
「下士官は兄、将校は親と思え」とか言われて、
真っ先に直面するのは「その兄から受ける体罰」...。
下士官は、体罰を奨励するがの如く、将校はそれをみて見ぬふり・・・
これって、嘘っぱちじゃんか!
って思うのが自然ですよね。
内部から体罰というシロアリに食い散らかされていくのです。
アメリカ軍も体罰は禁止しています。兵の体に触れる事もご法度だそうです。
逸話で、パットン将軍が腰抜けの兵士を殴ったことで、軍法会議どころが、議会でも
大問題になったなったそうです。
こんな時、それじゃいったいどうしているのか?
考えてみると日常でさえ、あいつ何やっとるん?
勤務時間中おしゃべりばかりして!
資料・・・まだできてないの!
いつまでこんな資料作れないの!
と、まぁいろいろ不満に思う事がたくさんあります。
体罰は無いにしろ、そういう負の感情は溜まるものですから、溜まれば、いつか溢れてきて収まらないとなると爆発することになるでしょう。
その気持ちもわからなくはありませんが、冷静に思いめぐらすとその感情はなんか、情けない、しっかりしろ、くやしいとか、腹が立つという感情です。
それは相手に対しての自分のエゴ。
八つ当たりしたいだけになってしまっているのではないかと思うのです。
それを考えなしにやってしまうと、個人的な恨みを買う事になるのです。
なので軍隊では、腕立て伏せ、営庭をランニングさせるとかです。これは上官命令で命じる。
その程度だそうです。
体罰を与えなくても、強い軍隊になるのは、フランス軍の例でも然り、アメリカ軍でもそうです。
兵士たちはナポレオンの下に喜んで参加して、勇敢に戦ったのです。
外国人も分け隔てなく採用する。功績をあげればっ出世もできる。
軍隊は、衣食住を与えて、功績を重ねていけば身を立てられるとなれば、時代が、生涯40年かそこらの一生で、故郷でただ漠然とすごすよりは一旗揚げたいと考える若者がナポレオン軍に集うのはおかしいとは思いませんし、そういう志が高い若者がこのナポレオン軍の中核を支えていたのです。
生きていく糧を得ることと、身分に関係なく自分の努力で身を立てる事ができるという環境を与えてくれたことに感謝すら感じているのですから...
どんな組織でも、体罰やそれに類似したものが、その行為が、人を殺していくのです。
学校の校則...
一定の規則を設けるのは賛成ですが、どこかの国家の憲法並みの校則となるとそこまで、規則で縛り付けないとダメなのか?
あなたは教育のプロじゃないのですか?
教育者は規則でしか学生をしばれないのかなぁ。
って、疑問にも思うのですが・・・。
その校則を護らないと、言葉で反省を促せないものだから、力に頼るしかないのでしょう・・・残念な事です。
あなたは、どう思いますか?(まとめ)
「君はどう思うかね?」これ口癖のように使ってた軍人のお話しです。
東プロイセンのポズナニ(現ポーランド)のドイツ騎士団を祖先とするユンカー出身で、
軍人として普墺戦争、普仏戦争に従軍、陸軍中将で退役していた。
第一次世界大戦でドイツ軍が東部戦線でロシア軍に敗れ、東プロイセンを放棄しなければ
ならないかもしれないという危機に当たり、参謀本部のモルトケはヒンデンブルクに急きょ
東部戦線司令官として復任を命じた。
ヒンデンブルクは参謀長のルーデンドルフとみごとにその危機を乗り切り、名声を高め、
二人はドイツ帝国を統御する名コンビとなった。「後年陸軍元帥に昇進したとき、ヒンデンブルクは“君はどう思う元帥”とあだ名された。
それは何か意見を聞かれると、きまってルーデンドルフを振り返り“君はどう思う?”と
たずねる癖があったからだった。」
の受け売りです!
もちろん、体罰は容認すべきではない。
否定して欲しいです。
体罰を行使する側は、人の上に立つ立場や、指導する側になるのがほとんどですので。
怒りは時間の経過で消えていくものです。
(二次感情ですから絶対に怒りを数時間も継続することはありません)
大事なポイントは、なぜそれが必要か
それを、伝えられないからで、伝えられる人になりましょう。
自分を磨きましょう。
結果がダメだから怒る→制裁(体罰)というのは、上官ではありません。
怒りは個人的なあなたの感情ですから。仕事ができていない事と別にしてください。
命令や指示や依頼するときが肝心なんです。
指示されたことを守っていないなら、部下は申し訳ないと能力知識力不足でナーバスになる。
ここで体罰を与える人はサディストです(笑)。普通そこまでやろうとは考えません。
指示されたことを守っていて結果が出ていない場合も、受けた側の心理は同じです。
まぁ、前者でありながら、わびれる風もない場合は、カチンとくるでしょうが、そういうときは笑顔で、次から仕事を与えなければいいだけです。
最初から素晴らしい人はそうそういません。
苦い経験を繰り返し、反省して学び続けているからこそ、理解できることばかりです。
「私は(俺は)、ここまでだ。もう無理だ。」
という、線引き(境界線)を引くことはありません。
気になることから、いろいろ考えていきましょう。
そのあなたに、何かお手伝いできる、ヒントをここから見つけてもらえたら、うれしい限りです。
最後まで、お読みいただいて、ありがとうございました。